看取り介護 有限会社ケアサービスおちあい なまはげの囁き 2014/11/20

長文です。m(_ _)m

高倉 健 死去の報に接して  2014/11/20

高倉 健 私は「健さん」と呼んでいた
私は18歳で高校を卒業、名古屋の中京大学に入学した
福岡から何故名古屋か・・・
私は幼少の頃より内弁慶だった
田舎の百姓育ち

学校では手を挙げることをためらった
人前で喋れば顔が真っ赤になり汗がでる
(今を知る人は嘘だろうと言われるかも・・喋ると止まらないから)
これではいけないと思い、思い切って喋ろうと思うと動機がするので止める
こんな私では大きくなって駄目だと思うようになった

「人の一生は自己表現にある」と教わった
表現できるようになるには、自分を変える必要があると思った
まずは親から離れて一人で過ごす
都会に行き言葉を変えようと思い名古屋に行った

大学はどこでもよかった
名古屋に行くと本当に一人である
寮生活で8畳の部屋に4人が暮らす
押入が2つ
上と下を分けて4つに区切り使う
その中に勉強のテーブルを入れてスタンドを点け勉強する

夜中にベルが鳴る
上級生のしごきである
廊下に正座させられる
厳しい上級生

しかし、その上級生が私たちのホームシックの寂しさを慰めてくれた
それはナイトショーの映画鑑賞である
行くと任侠映画
席は満席
私たちは階段に座って見る
始まると夜の街の女性たちが「健さん」と叫ぶ
そこから高倉 健の映画のスタート

健さんが出ると「キャー」と声があがる
藤純子(現在 富司純子 ふじすみこ)さんが出ると「駄目・・」と叫ぶ 焼き餅である
そんな映画館が寂しさを吹き飛ばしてくれた

映画が終わると手に持っている傘は
健さんが殴り込みする時の刀と同じ感覚で傘を持って外に出る
他の人々も同じ格好をしている

健さんのお陰で寂しさが飛んでいった
健さんの映画と共に4年間の学生生活を楽しく過ごしたように思う
健さんのお陰のように今日思う

名古屋に行き目的の「自分を変える」ことが出来、生き方も変わり人生が変わった
名古屋に行かなければ、今の自分はない
言葉数も少なく
田舎のじいさんだったろう(^_^;)

このとき自分が変わらなかったら、今、介護に関わる仕事はしなかっただろう
健さんから頂いた大切な「勇気」のお陰だろう
その「勇気」を、目指す「看取り介護」の仕事に役立てていこうと思う
健さんありがとう・・・神霊(みたま)となり見守って「勇気」を下さい
「健さん」と叫び
ご冥福をお祈りします。

なまはけの囁きの素顔一コマです